この話は、 ミュージアム邂逅記の晩に関する余話、『委員長「KT君」のこと(前)』のつづきです。
あの事件の後、10年程経過したある日の事です。
阪神甲子園駅の駅前に設置してあるCD機に現金を引き出しに立ち寄った際、横に停めていた私の車に、後に停まっていた車が運転を誤ってぶつかりました。所謂「おかま」をされてしまったのです。
幸い、私はCD機で引き出し中であった為何事もなかったのですが、ぶつかってきた車を運転していた人の会社名を聞き、驚きました。委員長「KT君」が勤務していた建設会社の社員さんだったのです。
つまり、ぶつかった人が 委員長「KT君」の同僚だったのです。
なんと言う偶然でしょうか。建設会社のある大阪ではなく、兵庫県の西宮市でぶつかった車を運転していた人物が委員長「KT君」の同僚だったというのですから驚きです。
10年程前の事件の後、彼に会おうと連絡をしても通じないし、枚方の実家を訪ねても、その実家すらなくなったりと、全く、行方が分からなくなってしまっていたのです。勿論、毎年やり取りをしていた年賀状も数年して届かなくなり戻ってきていたのです。
ぶつかった事の話もそこそこに、 委員長「KT君」の事を聞いてみました。
しかし、話の内容がどうも要領を得ません。もう随分前に退社をしたというばかりです。 何か、言いにくそうにしています。
そこで、彼とのいきさつや過去にあった事などを話してやっとの事で聞き出せたのは、退社した後、どうも尋常ではない亡くなり方をしたようだというのです。
この話が本当なら、枚方の実家の事も納得がいきます。
病気や何かの事故で亡くなったというのなら、きっと私たちにもその旨の連絡やお葬式の案内も来るに違いないからです。
学生時代の濃密な交友関係や結婚式への出席などを考え合わせると、連絡があってしかるべきだろうからです。
今日まで連絡が無かったという事は、やはり、家族以外の人には触れられたくはない何らかの方法で亡くなったと考えるのが妥当だろうと思われました。
委員長「KT君」 とは、学生時代の友情がその後も続き、社会人になってもしばらくは交流がありましたので、必ずや人生のある時期、それがビジネスなのか社会活動なのかは別として、一生を通して交流は続いていくだろうと思っていた一人の大切な親友です。
もしこの話が本当なら、あまりにもむなしい最期です。
苦しんでいたのなら、なぜ、私に話してくれなかったのか、少しでも助けさせてもらえなかったのか・・・。
また、学生時代とは違った社会人同士という関係性の中で、高校連盟の委員であった頃のように何らかの行動を共に出来なかったという口惜しさも残ります。
こうして、邂逅記の余話として記録しておこうと思ったのも、彼との友情とその思い出をいつまでも大切にしたいという心情がこのようにさせたのでしょう。
それに、もし彼達と同じ道を歩んでいたとしたら、やはり「KT君」は委員長のような立ち位置で、そして私はそんな彼を補佐する役割、ポジションだった事と思います。
人にはそれぞれに適した役割があるようです。
委員長「KT君」は、あの頃がそうであったように、リーダーシップのとれる人物ですから、それにふさわしいポジショニングであれば、ここで書いているような結末にはならなかったのではないか、と考えてしまいます。
あの委員同士であった一年間が強烈な思い出になっているものですから、今現在が彼と何らかの関係性の中にいたとすれば、どのような事を目的としてあの頃のように喜々として活動しているのだろうかと夢想してしまいます。
彼のリーダーシップのもと、私や「TT君」「AKさん」達と社会性のある文化活動がしたかった、そんな思いも浮かんできます。
彼の事は、これまで余人に話した事はありませんでした。
委員長「KT君」は、 私の胸の中では強烈に、しかも無類のコンビネーションが可能な人物であり、彼とならかなりの事が出来たのだろうという自負を私自身の心の中に生み出す程の親友でした。
委員長「KT君」に贈る言葉です。
・・・「 やはり野におけレンゲ草 」・・・
本当に、「KT君」は今書き終えたような結末だったのでしょうか・・・。
(終)
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