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〜はじめに〜
昔と違って今の時代は人生80年・・。
人の一生を4コマ漫画に例えるとすれば丁度、20年ごとに「起・承・転・結」と区切る事ができます。
そうすると、我が人生は4コマ目に入ったという事になるのでしょうか。
これからは、人生を振り返りつつ、これまでのまとめをしてゆく時期だとも言えるのでしょうか。
ホームページの記事書き込みに追われ、 最初のブログ書き込みから随分時間が経ってしまい、 書き込みがおろそかになってしまいました。
さて、ブログ2回目です。
まずは当然の事として、ミュージアムに関する事。
ただ、色々なミュージアムを紹介するといった「探訪記」ではなく、学芸員として経験し、ミュージアム活動を通して得た私なりのミュージアム観や、これからのミュージアムの方向性、それから、広く
~社会科見学の楽しさを通して~
ブログ、3回目。
何故、ミュージアムと関わる事になったのか。
ミュージアムに興味を持ったのはいつ頃からなのか。
今日は、そんな事を書いてみましょう。
ブログをお読みいただく皆さんもご経験がおありだとは思いますが、私が、小学校の3・4年生の頃、社会科見学で工場見学というのがありました。
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~ユネスコクラブの活動~
私と二歳違いの兄と同じ高校に入学後、兄の友人がユネスコクラブの部長をしていた関係から「入部してくれないか」という誘いを受け、ひょんな事から入部することになりました。
ユネスコクラブというのは、国連のユネスコ(UNESCO/国際連合教育科学文化機関)に対して、民間でユネスコ活動をしている高校生によって組織された文化クラブの事です。
~学芸員という職業~
またまたブログの記入が滞ってしまいました。
仕事以外の活動や特設コーナーへの記入等ですっかりご無沙汰でした。
前回は、クラブ活動の事を書きましたが、今回は、博物館を就職先に選んだ理由を書こうと思います。
当時、日本ユネスコ協会連盟が発行していたユネスコ新聞に「博物館技術者のためのパイロットセンターの建設」という記事が掲載された事がありました。
~学芸員の喜び~
思えば就職後約20年、家庭の事情で退職するまでの学芸員としての活動は、私に色々な出会いを演出してくれました。
先輩や同僚、後輩達との熱情を込めた議論の応酬、ミュージアム活動への思いや博物館事業へのこだわり、科学館の将来展望にまつわる思いの数々や、館内のメンテナンスに関わってもらっている色々な業者の方々との共同作業や、来館者の方々とのワークショップなどでの様々な交流・・・。
そんな中でも印象に残っている人も多数居られますが、今も強烈に残っている来館者の言葉があります。
~学芸員の学び~
博物館の学芸員も、他のビジネスマンの方々と同様に、専門分野の研究や業務知識を深めたり、 ヒューマン・ネットワークを広げる為の様々な会にも参加します。
今日は、そんな経験をとどめておきましょう。
教育普及業務を担当していた頃の話です。
私の在籍していた施設の展示業務では、年間を通した展示計画の作成と共に、学芸員自らが展示デザインや設計等も行なっていました。
~コンセプトの探求~
次の日から当館でどの様な催し物を、どんなコンセプトで催し物を企画したり開催すれば良いか、と考える日々が続きます。
その頃は、それまで約10年間、展示品や展示コーナーあるいは、展示室全体のレイアウト計画や展示設計など行なう展示業務の担当から、催し物や展覧会等の企画・制作・実施などを担当する教育普及担当に変わり、同時に、これからの科学館全体のあり方にも目を向ける事ができ、視野が広がり、少しは余裕も生まれてきていた時期でした。
~アクティブ・ミュージアム という企画~
私にとっては、全く経験のない作業、課題を克服する為のコンセプトから展覧会や講座、後援会などの催し物を企画してゆくという作業です。
テーマを決め、そのテーマを分解してサブテーマを見つけ、それを具現化するための具体的なデザインを決めていくといった、これまでの作業とは全く違った作業です。
~催し物を通した人々との出会い~
「 アクティブ・ミュージアム」
このコンセプトを決めたあと、もう一つの冒険をしました。
それは、当時の国鉄が設置した施設でしたので、管内の鉄道管理局にお願いをして、大阪を中心とした近畿圏を走る近郊の通勤電車の全車両約 2,500 両の車内吊り広告を、この「アクティブ・ミュージアム」の宣伝ポスターで1クール5日間を埋め尽くしてもらうというものです。
計画は見事に的中!!
~ミュージアムと情報化社会~
「アクティブ・ミュージアム」
この催し物を開催した夏の体験、人々との出会いは、私に新たな好奇心を芽生えさせました。
ミュージアムとコンピュータとの関係です。
ミュージアムは、原則的にはリアリティーの世界であり、コンピュータはヴァーチャルな世界です。新たなメディアであるコンピュータが、確実にミュージアムの世界に入ってくるという事は、容易に想像出来る事でした。
〜 次のフェーズに向かって~
その後、 「アクティブ・ミュージアム」を開催した時に出会った、アマチュアの人形劇集団との出会いが、 今日の情報化社会に於けるミュージアム像を求めていた私に、 より一層コンピュータへの関心を深めさました。
特に、先のブログに於いては、アマチュアの人形劇集団と表現していますが、実態は「音楽」をテーマにして、コンピュータを使った教育に関する研究をしている私的研究グループでした。
~フィーチャー・オブ・ザ・ミュージアム~
1980年代の後半、コンピュータも身近になり、それまでビジネスを行う上での業務用機器が、私達にもプライベートに使える様になりつつあり、同時に、コンピュータという今までとは全く違った「考えてくれる機械」をどう捉え、どの様に扱っていったら良いのか、という研究も始められようとしていました。
その頃の「数理科学」という研究誌に、「認知科学という学問はどのような科学なのか」という内容の論文が掲載された事がありました。
このお話は、ミュージアム邂逅記「ミュージアムとの出会い その2」に関する余話です。
高校生の頃のユネスコ活動の事を思い出すと、必ず思い浮かんでくるのが 委員長「KT君」のことです。
あの頃、そうです、私がユネスコクラブの部長をしていた頃の話です。
大阪府下にある高等学校のユネスコクラブが集まり、「大阪ユネスコ高校連盟」が結成されていました。加盟校は、公立、私立あわせて17校でした。
連盟を率いるのは、加盟校の高校生7名による委員会です。
この話は、 ミュージアム邂逅記の晩に関する余話、『委員長「KT君」のこと(前)』のつづきです。
あの事件の後、10年程経過したある日の事です。
阪神甲子園駅の駅前に設置してあるCD機に現金を引き出しに立ち寄った際、横に停めていた私の車に、後に停まっていた車が運転を誤ってぶつかりました。所謂「おかま」をされてしまったのです。
幸い、私はCD機で引き出し中であった為何事もなかったのですが、ぶつかってきた車を運転していた人の会社名を聞き、驚きました。委員長「KT君」が勤務していた建設会社の社員さんだったのです。
つまり、ぶつかった人が 委員長「KT君」の同僚だったのです。